みなさん、こんにちは。141です。
あっ、始業のチャイムが鳴った。
先生も、もう来ている。
早く席につかねば。
しかし、そこには教室はあるが、あるべきはずの椅子や机はない。そう、この日は我が母校の最後の授業なのだから。
・
・
・
・
・
今から数年前に、我が母校に埋めたタイム・カプセルを掘り起こそうというプロジェクトが立ち上がった。
これは、その時のタイム・カプセル発掘の模様をまとめた写真集。(奥は文集)
結局、タイム・カプセルは発見されなかったが、30数年振りに集まったみんなの絆は強まった。
そして、その母校が統廃合により取り壊されることになり、そこで当時の恩師を招いて『最後の授業』が行われることとなった。
そしてその前日、懐かしさを感じながら当時の文集を読み返してみる。
文集なんて読むのは何十年振りだろう。
当時のオレは一体どんなことを書いていたんだろうか?
キャンプに
カニ・魚
全く今と変わらん
というか、全く進歩ナシ、というべきか。
そんな、ことをおもいながら、懐かしさのあまりちょっと夜更かしをしてしまった。
そして、翌日。
10時前には、現場に到着予定だったのに、目覚めると時計は九時を回っていた。
顔も洗わずに家を飛び出す。
10時過ぎに母校の近くの公民館に到着。
校舎は、廃校になってから10年も経つので老朽化も目立ち、いきなり入ることは出来ないのだ。
取材を受ける同級生。
この2人を中心に、いろいろと新潟市の許可を得たり、地域住民との折衝やこのイベントの告知など、いろいろ骨を折ってくれた。
やっぱりそういうリーダー・シップは、小学生時代から変わらないな~。感謝!
校舎に入る際の注意事項などの説明を受けた後、いよいよ校舎へ。
あー、あー、みんなが声を出すがなかなか言葉にならない。
しかし、何を思っているのかはみんな一緒だ。
そして、視聴覚室へと。
そこでは、万代太鼓の演奏が。
何十年振りかに叩く同級生と
それを受け継ぐ新しい世代との共演。
そっと、脇に目をやるとキヨシ(同級生)のかあちゃんが泣いている。
キヨシの弟のジュンジは今でも太鼓を続けている。
ス・スミマセン、ジュンジを池に突き落としたのは僕です。
それから、いつも通るたびにおじいちゃんのラビット(スクーター)のグリップをイタズラしていたのも僕です。
いや、そんなことはどうでもいい。
オレも、こらえるのに必死だ。
こらえるって、涙をか?
いや、涙なんかもうみんなとっくに流している。
しゃくりあげないように、ハナミズを垂らさないようにみんな必死だ。
この状況で泣かないやつがいるのか。
だとしたらそいつは鬼だ!
が、しかし女子は泣かねんだよな~。
えっ141クン泣いてんの?ちょっと早くない?
女は強し。
一方こちらは
泣きながら取材を受ける。
当時、万代太鼓クラブが中国に行ったときの法被を説明する恩師。
中国に子供なんていったことのない時代。
日中友好の懸け橋として親善団的な役割をもって中国に渡った万代太鼓クラブ。
当時学校に公安当局が来て、校長とこの恩師が尋問されたりといろいろと大変な時代だったようだ。
演目も何曲かは、音楽の先生と相談して新たに作ったそうだ。
特に佐渡に遠征したとき用に佐渡おけさのフレーズを入れたり。
また、新潟まつりの時には、有志の父兄が
『今から万代太鼓が通ります~』
と拡声器でアナウンス。
そのお蔭で多くの沿道のかたからご祝儀を頂き、それを校長と恩師が集めて回ったというエエピソードなどなど。
今だから話せる、当時の苦労話。
そして、いよいよ
最初は、野球部の顧問だったKNU先生の授業。
子育ての土台となる人間観についてお話された。
今だから心に沁みる最後の授業。
学校に土俵を作った時の懐かしい話も出てきた。
父兄、先生、児童総出で土俵を作ったあとは、みんなで裸のまま近くの銭湯に行ったっけ。
当時のファースト・ミットを持って記念撮影。
この先生のノックが超強烈で、至近距離からのフル・スイング。
つい数年前までは、時々夢に出てきてうなされたほど。
これを機に、また夢に出てきたらどうしよう(笑)。
でも、野球部ではほんとうにお世話になりました。
今でもナインの打順とポジションは覚えていますよ。
そしてお次は、当時の担任の最後の授業。
新潟駅前の街のど真ん中の小学校だったのと、当時の名物(代わり物?)の校長のお蔭で、いろんな実験的なことをされたお話をして頂いた。
例えば、今なら当たり前の移動教室。
当時はなかなか教育委員会に認められなかったが
登山=体育 カレーを作る=材料の計算=算数 歌を歌う=音楽 料理をする=家庭科
それらを作文にする=国語
つまり立派な授業なんだ、ということを教育委員会に掛け合って実現したそうだ。
新潟駅まで歩いて行けるので、国鉄と交渉して通勤ラッシュ前後の電車をおさえたり・・・
・・・今の先生片はそこまでやってくれるだろうか。
また、浜茶屋のオヤジに酒を渡して浜茶屋ところかボートまで貸切の全校海水浴の話。
これは、校長の『足のつかないところで泳げなければ意味がない』
の一言で始まったそうだ。
父兄も総出の海水浴。
プールでしか泳いだことのない町っ子に、遠泳やボート漕ぎまでやらせてくれた。
この時初めて知ったが、本当に学校や親に世話になった、地域に育ててもらった、と実感した授業だった。
そして、授業の終わりには校歌をみんなで。
もちろん歌えなかった。
帰り際の資料室にて、いろんなものを発見。
当時のユニフォーム。
キャプテンのフルと思わず声を上げた。
さようなら、我が母校。
校舎はなくなっても、みんなの心はひとつです。
先生型、地域のみなさまほんとうにお世話になりました。
そしてこの機会を設けて頂きました、実行委員並びに関係者の方々、ほんとうにありがとうございました。
そしてお待ちかねの
アフター(笑)。
三学年が集まっての飲み会。
この飲み屋さんも、小学生時代からあり、ちょっと気になっていたところ(笑)。
6時間飲み続け、たいしたもんだとキヨシのブログで書かれたけど
8合も飲んだころには、ベロベロでお蕎麦が猪口に入らない。
しかし流した涙の分は、アルコールでしっかり水分補給させてもらったぜ!
我らスメドレー・ブラザース。
オトコはだまってVセーター
ではでは、また。
141
あっ、始業のチャイムが鳴った。
先生も、もう来ている。
早く席につかねば。
しかし、そこには教室はあるが、あるべきはずの椅子や机はない。そう、この日は我が母校の最後の授業なのだから。
・
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今から数年前に、我が母校に埋めたタイム・カプセルを掘り起こそうというプロジェクトが立ち上がった。
これは、その時のタイム・カプセル発掘の模様をまとめた写真集。(奥は文集)
結局、タイム・カプセルは発見されなかったが、30数年振りに集まったみんなの絆は強まった。
そして、その母校が統廃合により取り壊されることになり、そこで当時の恩師を招いて『最後の授業』が行われることとなった。
そしてその前日、懐かしさを感じながら当時の文集を読み返してみる。
文集なんて読むのは何十年振りだろう。
当時のオレは一体どんなことを書いていたんだろうか?
キャンプに
カニ・魚
全く今と変わらん
というか、全く進歩ナシ、というべきか。
そんな、ことをおもいながら、懐かしさのあまりちょっと夜更かしをしてしまった。
そして、翌日。
10時前には、現場に到着予定だったのに、目覚めると時計は九時を回っていた。
顔も洗わずに家を飛び出す。
10時過ぎに母校の近くの公民館に到着。
校舎は、廃校になってから10年も経つので老朽化も目立ち、いきなり入ることは出来ないのだ。
取材を受ける同級生。
この2人を中心に、いろいろと新潟市の許可を得たり、地域住民との折衝やこのイベントの告知など、いろいろ骨を折ってくれた。
やっぱりそういうリーダー・シップは、小学生時代から変わらないな~。感謝!
校舎に入る際の注意事項などの説明を受けた後、いよいよ校舎へ。
あー、あー、みんなが声を出すがなかなか言葉にならない。
しかし、何を思っているのかはみんな一緒だ。
そして、視聴覚室へと。
そこでは、万代太鼓の演奏が。
何十年振りかに叩く同級生と
それを受け継ぐ新しい世代との共演。
そっと、脇に目をやるとキヨシ(同級生)のかあちゃんが泣いている。
キヨシの弟のジュンジは今でも太鼓を続けている。
ス・スミマセン、ジュンジを池に突き落としたのは僕です。
それから、いつも通るたびにおじいちゃんのラビット(スクーター)のグリップをイタズラしていたのも僕です。
いや、そんなことはどうでもいい。
オレも、こらえるのに必死だ。
こらえるって、涙をか?
いや、涙なんかもうみんなとっくに流している。
しゃくりあげないように、ハナミズを垂らさないようにみんな必死だ。
この状況で泣かないやつがいるのか。
だとしたらそいつは鬼だ!
が、しかし女子は泣かねんだよな~。
えっ141クン泣いてんの?ちょっと早くない?
女は強し。
一方こちらは
泣きながら取材を受ける。
当時、万代太鼓クラブが中国に行ったときの法被を説明する恩師。
中国に子供なんていったことのない時代。
日中友好の懸け橋として親善団的な役割をもって中国に渡った万代太鼓クラブ。
当時学校に公安当局が来て、校長とこの恩師が尋問されたりといろいろと大変な時代だったようだ。
演目も何曲かは、音楽の先生と相談して新たに作ったそうだ。
特に佐渡に遠征したとき用に佐渡おけさのフレーズを入れたり。
また、新潟まつりの時には、有志の父兄が
『今から万代太鼓が通ります~』
と拡声器でアナウンス。
そのお蔭で多くの沿道のかたからご祝儀を頂き、それを校長と恩師が集めて回ったというエエピソードなどなど。
今だから話せる、当時の苦労話。
そして、いよいよ
最初は、野球部の顧問だったKNU先生の授業。
子育ての土台となる人間観についてお話された。
今だから心に沁みる最後の授業。
学校に土俵を作った時の懐かしい話も出てきた。
父兄、先生、児童総出で土俵を作ったあとは、みんなで裸のまま近くの銭湯に行ったっけ。
当時のファースト・ミットを持って記念撮影。
この先生のノックが超強烈で、至近距離からのフル・スイング。
つい数年前までは、時々夢に出てきてうなされたほど。
これを機に、また夢に出てきたらどうしよう(笑)。
でも、野球部ではほんとうにお世話になりました。
今でもナインの打順とポジションは覚えていますよ。
そしてお次は、当時の担任の最後の授業。
新潟駅前の街のど真ん中の小学校だったのと、当時の名物(代わり物?)の校長のお蔭で、いろんな実験的なことをされたお話をして頂いた。
例えば、今なら当たり前の移動教室。
当時はなかなか教育委員会に認められなかったが
登山=体育 カレーを作る=材料の計算=算数 歌を歌う=音楽 料理をする=家庭科
それらを作文にする=国語
つまり立派な授業なんだ、ということを教育委員会に掛け合って実現したそうだ。
新潟駅まで歩いて行けるので、国鉄と交渉して通勤ラッシュ前後の電車をおさえたり・・・
・・・今の先生片はそこまでやってくれるだろうか。
また、浜茶屋のオヤジに酒を渡して浜茶屋ところかボートまで貸切の全校海水浴の話。
これは、校長の『足のつかないところで泳げなければ意味がない』
の一言で始まったそうだ。
父兄も総出の海水浴。
プールでしか泳いだことのない町っ子に、遠泳やボート漕ぎまでやらせてくれた。
この時初めて知ったが、本当に学校や親に世話になった、地域に育ててもらった、と実感した授業だった。
そして、授業の終わりには校歌をみんなで。
もちろん歌えなかった。
帰り際の資料室にて、いろんなものを発見。
当時のユニフォーム。
キャプテンのフルと思わず声を上げた。
さようなら、我が母校。
校舎はなくなっても、みんなの心はひとつです。
先生型、地域のみなさまほんとうにお世話になりました。
そしてこの機会を設けて頂きました、実行委員並びに関係者の方々、ほんとうにありがとうございました。
そしてお待ちかねの
アフター(笑)。
三学年が集まっての飲み会。
この飲み屋さんも、小学生時代からあり、ちょっと気になっていたところ(笑)。
6時間飲み続け、たいしたもんだとキヨシのブログで書かれたけど
8合も飲んだころには、ベロベロでお蕎麦が猪口に入らない。
しかし流した涙の分は、アルコールでしっかり水分補給させてもらったぜ!
我らスメドレー・ブラザース。
オトコはだまってVセーター
ではでは、また。
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